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耳すませば

耳をすませば
来たか!、っていう(笑)
一体どういう人がこの文章を読むことになるのかわからないけど、
このHPの「PROFILE」なんかを先にごらん頂いて、
俺がどういう人間かということを知っていらしたら、
さぞトリハダの立つことでしょう。
こんな男がこういう映画をマイ・フェイバリット・ムービーとして、
その思いをテキストにしちまうなんて。
さようなら女性読者の皆さん。

「ジブリ」の1995年の作品です。
いやもう、気持ち悪いだのなんだの言われようが俺はこの映画が好きです。
テレビでやるたんびに必ず見てしまう。
はっきり言って刷り込みのような部分もあるのだけれど、
きっとこの先ももう少し、放送される時はかかさず見るのだと思う。

初めて見たのは多分小学生の頃で、
劇中の雫ちゃんと聖司君の恋模様に漠然とした憧れのようなものを抱いた。
今の(楽しいけれど)くだらない生活は徐々に変わっていき、
「ぼくもすこしずつおとなになっていくのだろう」と思った。
他の多くのマンガやドラマや映画などのフィクションもそうであるように、
それはそれは「中学生」や「高校生」の生活というのが
キラキラ光ったものに思えたのです。
しかし現実はそうドラマティックなこともなく、
たまにテレビでやる「耳をすませば」を何回か見ていたら、
僕は中学生になり、高校生になり、
あっという間に二人の年齢を追い越してしまっていた。

まぁそこいらの
僕の勝手な妄想なりコンプレックスなりに肉付けされた部分以外にも、
単純に作品の中の視覚的な世界が好きだったりもする。
その理由はよくわからないけど、例えばこの映画の舞台の街の「絵」がいい。
丘陵地帯に住宅が立ち並び
(モデルは確か多摩ニュータウンとかだったような)、
3次元の制約によって繁華街の喧騒とは少し離れていて、
少し大きめの図書館があったりする。
雫ちゃんの住む団地のあの感じだとか、
少し歩けば大きな駅があって、その周りの賑わいだとか、
現実的な意味で、この作品の世界感に魅かれる。

考えてみれば、
僕が生まれて最初に住んだ「家」というのは父親の会社の社宅で、
周りにもマンションや団地があった。
そして僕は基本的に都会や人混みが嫌いなので(実は電車も嫌いだ)、
この「耳をすませば」という映画の世界は、
絶妙なバランスで僕の好みを抑えているのかもしれない。
大都会でもなく、田舎でもなく。

そして故郷と思えるものを持たない僕にとって、
(僕の好みに合う)作品中の街で自然に暮らす、
劇中の人々が単純に羨ましい。
近くの図書館に通ったり、猫を追って小道をどんどん入っていったり、
例えば雫ちゃんと聖司君のどちらでもいいんだけど、
「こんなつまらない街を早く出てやるんだ!」みたいなスタンスだったら、
嫌だったと思う。
更に言うと、
ジョン・デンバーの「TAKE ME HOME,COUNTRY ROAD(故郷へ帰りたい) 」
に新しく歌詞をつけて歌われた「カントリーロード」も抜群にいい。
いち中学生が合唱部の友達に頼まれて、って設定だったけど、
ああいう街に住んで、先に挙げたような生活をしていて、
その女の子がこんな詞を書き上げた、っていうのがもう。

少なくとも僕の中高時代は自分の住んでた町にいつも不満を持っていたし、
(引越してきたこともあって愛着も何も無かった)
具体的に挙げればキリがないけど、
店が少ないだとか、駅まで出るのに遠いだとか、
その手段の一つであるバスの整備が全くなってなかったり、
更には雨の日はそのバス及び駅へ出る道が狭いせいで・・・と、
日常的にある種の絶望的な不便、不満感を抱えながら生活するのと、
そうでないのとでは雲泥の差があると思うのだ。

そんな中で、うら若き男女が夢や希望にあふれ(現実的にね)、
生き生きとみずみずしく描かれた物語なんだから、
ハナをほじりながら青春ならぬ灰春を送ってきた僕が
グイグイ来ないわけがなかろう!

竹林の中のお堂?の前で不意に告白されたり、
自転車に二人乗りで冬の朝に日の出を見に行ったり
(まさに「冬はつとめて」!)だとかマジ勘弁。

憧れ、追いつき、いつの間にか過ぎてしまって、結局とり逃したこの感じが
忘れ去ることのできないトラウマのようになっているのだと思う。
いやぁしかし本当に僕は気持ちの悪い人間だ。

まぁできる事といったら、多摩ニュータウンに一戸建てを買うことぐらいですか。
もっと言えば「聖蹟桜ヶ丘駅」付近だっけか。
何年先になることやら。
ac