MOTHER3
*激しくネタバレです。注意。
MOTHER、MOTHER2というゲームが大好きだ。異常なほどに愛している。
10数年前、2のエンディングで「to be continued」という文字から、
僕は待ち続けた。
その間延期、制作中止、再開を経て、
この春、およそ1週間前にMOTHER3は発売された。
そして僕は1週間でクリアしてしまった。
毎日少しずつしかやらなかったのだけど。
まず最も原始的な感想は「足りない」ということだ。
ストーリーやしかけ、仕事と熱量が前作に比べて圧倒的に足りなかった。
ゲーム自体のボリュームが少ないのである。
むろん「長い」ゲームがいいゲームとは言わないし、
1周のプレイ時間が短いRPGでも素晴らしいものを僕は知っている。
2をクリアした人ならば、どう考えても3のストーリーは見えてるはずだ。
あの憎きポーキーが今度の「相手」もしくは、
その中枢にあることは疑いようがない。
そういう意味でMOTHER2が「ギーグの逆襲」だったのと同じように、
プレイヤーは大ネタというか、その一番の根っこはわかってるのである。
(終盤近く、まさかあのポーキーが!と驚いたという感想があったが、
そんなすっとぼけた人間は何かの感想を語る資格など無い。)
つまりあのギーグが今度は?という2と同様に、
あのポーキーが今度は?という予想がたつのは3にとって必然である。
まずその点で3はあまりにストーリーが単純すぎる。
なんのひねりも無いまま、強大なったポーキーを倒すだけだ。
前作のギーグが、自身の悪に飲み込まれて人格をも失い、
悪そのものになってしまったのに対し、
ごく普通に軍隊を組織するなどの構造的な強さを見につけてただけだった。
ただの傲慢な子供が、異星人に接近して
その参謀から親玉に近いまでになってしまったあのポーキーが、
更なる凶悪な存在になってるかと思ったら。
前作で主人公と同じ「子供」だったポーキーが
ただのお邪魔キャラどころではなく、ラストバトルで再開したときの変貌ぶり。
あの恐怖や悲しさ、衝撃が3には無かった。
そして物語が章仕立てで、
主人公が異なるという今回のシステムも必然を感じなかった。
多数の視点によって紡がれる話のダイナミズムも無かった。
サルサが主人公の章に一体何の理由があるのだろう?
基本的に人や生き物が「死なない」MOTHERだったのだが、
今回の人の死にっぷりと言ったらない。
冒頭の母の死、そしてラストバトルでのクラウスの死。
ポーキーの野望を砕き、世界を救ったとしても、
これじゃリュカたちは負けじゃないか!と僕は思った。
クラウスこそ助けてほしかった。
冒頭で母親が死に、その仇を取りに行ったクラウスが行方不明になり、
そのクラウスを探しにいく父親フリント。
以降、結局フリントは最後までゲームに出てこないし、
クラウスが何かの理由で敵側の「かめんのおとこ」となって、
リュカたちの前に立ちはだかり続ける。
クラウスもフリントもずっと気になり続けてるプレイヤーに、
とってつけたようにラストにかけつけるフリントと、
本当にただポーキーに操られてただけで、
その駒となって死んでいくクラウス。
全然救いがないし、楽しくなかった。
とにかく話は短いし、単調である意味で期待を裏切らないストーリーだ。
そこで更に問題なのが、他の部分でのボリューム不足である。
MOTHERは糸井重里のセンスが各所にちりばめられて、
ゲームの本筋以外にも楽しいところがあった。
それらはミニゲームなどでお茶を濁すのでなく、
「世界」を形成するものとして物語に付加されたものだった。
顕著なのはやはり「人」である。町の人の話の作りこみがすごかったのだ。
「世界を救う」旅をする主人公に対して、
それぞれの毎日を過ごしてる名も無き人のセリフに楽しまされたのに。
今回がそれは無い、とは言わないが圧倒的に少なかった。
一つ一つの小さなこと。
他のゲームはそれを審査する段階で「いらない」としてしまうもの。
MOTHERはそれを慎重に吟味して採用し、ゲーム内に配置した。
一つ一つのものは小さいためにそれだけを比べたら、
他のゲームとそれだけで差がつくわけはない。
しかしゲーム全体を振り返ったとき、
その小さな一つ一つを積み上げたことによる「塵の山」が、
MOTHERを凡百のゲームと異なる存在にしていたのに。
64版MOTHER3について、
話の進行ごとに町の人たちのしゃべることがどんどん変わっていくものにしたい
という話があった。
スーファミという媒体のMOTHER2でも
僕らは他のゲームに無いボリュームを味わったというのに、
糸井重里は更に容量を大きくしてくれるのか!と非常に期待したのだ。
まさにハードの進化が単純に「楽しさ」の量を増やすものを思っていた。
結果、MOTHER3はGBAで発売になったが、
スーファミのMOTHER2がGBAに移植されたことから、
GBAでMOTHER2と同等のボリュームの作品を作ることが
不可能ではないのは明らかである。
エンディングは前作同様、
味方も敵も「キャスト」として出てくる演出だ。
僕はMOTHER2のその場面でも必ず泣いてしまう自信がある。
味方や仲間はもちろん、それぞれの悪役についても
「よくやった!」と拍手を送りたい気持ちになるのだ。
極上の大団円なのである。
しかしMOTHER3では、同じ演出のエンディングを見せられても、
敵に対しては「出てくんな」と思ったし、不快なエンディングでしかなかった。
それはMOTHER2がプレイ後にゲーム全体として
「エンターテイメント」と感じられたものだったのに対し、
3は「笑えない」物語であるからだ。
母親は死に、悪の手先のまま主人公の兄は死ぬ。
そういうシリアスな物語には、前作と同じ演出はどう考えてもミスマッチだ。
MOTHER2と違う、「奇妙で、せつない」ゲームにするならば、
エンディングもそうすべきだったと僕は思う。
僕はもうゲームをクリアしたときに
辛くていてもたってもいられず、2ちゃんのMOTHER3スレなどを覗いた。
この失望を共有したかったのである。とにかく誰かと慰めあいたかった。
しかしながらスレを覗けば、
「感動した」「やっぱり良い!」「泣いた」などの書き込みを見た。
僕は本当に絶望した。
「おまえらは本当にMOTEHRとMOTHER2をプレイしたのか」
とわめき散らしたかった。
わかっているけれど、簡単に「人それぞれ」なんて言葉では
絶対済ませたくないのだ、MOTHERに関しては。
僕は本当に絶望した。
MOTHER、MOTHER2をプレイした人間が先のような感想を持つだなんて。
このゲームを始めたとき、僕は感動していた。
自分がMOTHER3をやってるという現実に酔っていたのだった。
BGMも凝っていたし、旧作同様ドット絵ではあったが、
その豊かなキャラのアニメに感動したのである。
キャラの行う仕草がいちいち豪華だった。
もう掴みはおっけーだったのだ。
そして旧作同様、田舎から始まる物語。
その村が悪の組織によって変えられていく。
テレビが「シアワセのハコ」として配られたり、「お金」のしくみがもたらされて、
生活は発展し、村の人々は悪の組織に感謝すらしていく。
その中で孤立していく主人公達。
自分たちの現実ともリンクしてるのではないかという想像の余地。
この物語のスケールの大きさを(今となっては)勝手に想像し、
本当にわくわくしていたのだ。
序盤に関しては、僕は全く安心してMOTHER3をプレイしていたのだった。
それがまさかこんな結果だとは。
「MOTHER3」というゲームがこの世に存在していることが、
本当に悲しいのだ。悔しいのだ。
僕はこれから人にMOTHERの話をする時、全力では語れないのだ。
MOTHERは3つ存在し、3が自分にとってはだめだというどうしようもない現実。
あぁ。
可能ならスペーストンネルで、
違う「MOTHER3」の存在するパラレルワールドに行きたい。
2006/04/27